| 日本の速達を中心とした、急速送達郵便史 |
日本の郵便制度のクオリティ(質)の研究に力を入れています。
近代国家における郵便サービスの要諦は、先ず「いかに安全・確実に送達するか」ですが、そのレベルをクリアすると、次にそのクオリティが問われることになります。郵便サービスの質を計る尺度は古今東西を通じ「送達スピード」であり、郵便サービスのクオリティは、その時々の「急速送達サービス」がどのように実施されたかという歴史を通じ検証することができます。
日本における急速送達郵便サービスは、朝鮮における試行を経て明治44年2月11日に内国郵便に導入され、今日まで続く「速達」がその中心を占めます。
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● 日本における速達制度スタート時の速達私製はがき(右)
わが国に速達郵便制度が導入された7ヵ月後の明治44年9月17日午前9-10時、東京原宿局から東京帝国大学あてに差し出された私製はがき。本郷局の到着印(同日午前10-11時)が押捺されており、僅か2時間以内で配達されたことが分かります。これは今日ではバイク便に匹敵する超特急の郵便送達サービスで、当時の郵便サービスの質の高さを裏付ける重要な史料です。料金は、はがきが1銭5厘、速達料金が6銭(東京市内)。
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しかし、これは明治4年の郵便創業から実に40年を経て漸く導入されたもので、この間、急速送達を求める郵便利用者は、配達局から先のプロセスはスピードアップするものの途中の逓送は普通郵便と変わらない「別配達」ないし「別仕立」を利用していました。
速達制度のスタート以降も、その後暫くはサービス対象地域が限定されていたことから、多くの国民は、別配達が速達に統合され、速達サービスが全国化する昭和12年8月16日以前は別配達に頼らざるを得ない状況にあったのです(昭和12年の全国化前後の事情についてはこちらのコレクションをご覧下さい)。
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● 旧植民地:朝鮮における速達の実例(上)
朝鮮では明治期に、日本の郵政が内地で速達サービスを始める前に制度を試行したのですが、その時代の郵便物は未だ発見されていません。それどころか、それ以降の時代でも、朝鮮差し立ての速達郵便は、ほんの数点が知られるだけとなっています。これは昭和5年8月19日に龍山局から本土の東京(淀橋)あてに差し立てられたはがきで、朝鮮と本土間で翌日配達となっています。料金の内訳は、はがきが1銭5厘、速達料金が10銭、航空料金が15銭の合計26銭5厘で、はがきの裏面には5厘切手が貼られています。
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● 旧植民地:台湾における速達の実例(上)
当時、日本の殖民地であった台湾でも、昭和11年8月1日から速達郵便制度が導入され、限定的ながらも島内での急速サービスが始まりました。速達料金は、本土と同様に8銭でした。これは、その初年の使用例で、昭和11年12月26日に台北局から市内あてに差し出されたもので、これまでに知られる中で最も古い日付を持った速達郵便物となっています。
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昭和12年8月16日に全国実施された後の速達サービスは、いったんは高い利便性を誇りました。しかしながらその後、戦時統制の強化による「軍事優先」の壁に阻まれて次第にクオリティを維持できずに衰退し、信認が地に堕ちた状況下で終戦を迎えることとなりました(この時代の事情についてはこちらのコレクションをご覧下さい)。
そして、戦後の混乱期以降にようやく制度が立て直され、高度成長期を経て今日に至っています。しかし、明治44年当時のようなサービスの水準は到底望めないというのが現状です。
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● よど号に塔載された速達便カバー(右)
昭和45年3月31日、羽田発福岡行きの日航機「よど」号を赤軍派9人が乗っ取り、北朝鮮の空港に強制着陸後、北朝鮮当局に投降しました。この時、この飛行機に積載されていた郵便物は、北九州地区宛てが殆どでしたが、積載されたままソウル・金浦空港経由で北朝鮮・ピョンヤンまで運ばれ、解放後の同年4月3日に福岡空港に帰って来ました。これは、よど号に塔載されていた郵便物のひとつで、東京新宿区の「社会主義協会」より長崎市内宛てのカバーで、水芭蕉45円と新藤20円が貼られた速達便です。
櫛型の消印は「牛込 昭和45年3月30日・18-24」の消印で抹消されています。日本へ飛行機が帰って来て、福岡中央局で貼られた付箋には「この郵便物は、乗取り事故の日航機に搭載されていたため遅延しました。」と印刷されています。最終配達局の印は櫛型「長崎北/45.4.4./8-12」で、差し立てから5日かけて配達されたことがわかります。
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